亀崎の山車が繋いだ「立川流彫刻」の系譜 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now

亀崎の山車が繋いだ「立川流彫刻」の系譜

Story.11

亀崎の山車(やまぐるま)を覆うように彫られている立川流彫刻。この素晴らしい作品の登場は、尾張の彫物師たちにも大きな影響を与えたといいます。六代目立川流棟梁立川芳郎尚冨を襲名した間瀬恒祥さんに、立川流彫刻の魅力と成り立ちについて、お話を聞きました。

亀崎の山車が繋いだ「立川流彫刻」の系譜

立川美術館半田市

日本の彫刻美術の最高峰「立川流」

神社仏閣に施される彫刻「宮彫」の世界において、江戸時代後期に興隆したのが、今回紹介する「立川流」です。信州諏訪で興った立川流は、二代目立川和四郎富昌の時代に完成され、その名を全国に轟かせました。富昌は、多くの有能な弟子を育て、自分に匹敵する技術をもった者を棟梁として全国に派遣することで、各地に立川流の作品を残します。亀崎の山車(やまぐるま)を覆うように彫られているのもこの立川流彫刻。この素晴らしい作品の登場は、尾張の彫物師たちにも大きな影響を与えることになりました。

《写真》六代目立川流棟梁立川芳郎尚冨 間瀬恒祥さん

何故、立川流彫刻は芸術の域に到達し得たのか

立川流彫刻の中で人気のモチーフは「力神」です。これは、亀崎中切組力神車の「壇箱」にも見ることができます。「壇箱」は、ちょうど大人の目線あたりにある彫刻スペース。ここの中央に、力神が乗り出すようにこちらを見まわしていて、とても迫力があります。
このほど「六代目立川流棟梁立川芳郎尚冨」を襲名した間瀬恒祥さんも、幼い頃から大の力神好き。「中切組力神車の力神は、立川流の力神の中でも最高傑作といわれているもの。この力神はひとつの木ではなく、三つの部分に分けられているのが特徴で、木目を効果的に出しているのです。巧みな寄せ木技術といえますね」。
しかし、間瀬さんによると、立川流彫刻において特に素晴らしいのは、彫る前に描く「下絵」だと言います。立川美術館では、これらの下絵を見ることができますが、本当に彫刻師が描いたのかと思うほど、どれも日本画として完成されています。

そして、立川流の彫刻師のスゴイのは、中国の古い話をテーマとするなど非常に高度な教養を持っていたことです。しかもただ物語絵を作っているわけではなく、その場面のその人物をどう表現するかを重要視しているところに他の彫刻との違いがあります。
恥ずかしながら、その話を聞くまで、彫刻師とは、「細かく彫る技巧を持つ者」だと思っていました。間瀬さんによると、それは「木工職人」だということでした。
間瀬さんは、弟子たちに、彫刻師は『作る学者』でなければならないと伝えています。
何故、立川流彫刻は芸術の域に到達し得たのか。それは、日本画にも木材にも、歴史にも流行にも精通する彫刻師の存在があったからなのです。
しかし、これだけ人々を魅了し興隆した立川流ですが、時代の波や後継者不足には抗えず、衰退の一途を辿っていきます。そしてついに、立川流本家・最後の彫刻師である「立川尚冨」が亡くなったことにより、立川の潮流は途絶えてしまったのです。

研究、育成、伝承を一手に引き受け、再興へ

そして時代は今から30年前。間瀬さん自身の話に戻ります。
立川流の一大事など露知らず、大学生の間瀬さんは、立川流を追求した二代目彫常である新美茂登司先生の門を叩きます。そこで「内弟子は持てないから、他で仕事に就きなさい」と言われ、小学校教師となり、通い弟子となりました。
新美先生によって立川流彫刻の奥深さを知った間瀬さんは、「このまま立川流彫刻を廃れさせてはならない。後継者を残すために、今、動かなければならない」という思いが強くなります。そこで、作業所を開放して、後継者育成のための『立川流彫刻研究所』という訓練施設を設立。当時30代だったそうですから、その本気度は相当のものです。

「どんな芸術でも、愛好家のいないものは存在しません。血筋に頼る職人は廃れるが、芸術は生き続けられる。まずは広く愛好家を集め、技術的、学術的、美術的、そして感性を磨いていけば、その道を継ぐ者が現れるはず。そして同時に、各地にわずかに存在している立川流の末裔の方々とも連携し、立川流が辿ってきた歴史をひとつにまとめることも重要です。歴史の解明と、実際に触る者がいて、初めて芸術として次世代へ伝えられるのですから」。

同時に、間瀬さんは教師の立場として「伝える」ことが大切であると感じていました。
「それは教育の力ですよね。祭の中でごく自然に親しむこと、その文化的な背景や美術的なものの観方を知ることによって、多くの人たちがその文化に親しむことが重要なんです」。
こうしてできたのが、「立川美術館」です。ここは、単に史料を並べて公開しただけではありません。素晴らしいのは、すべての見学者に対して、ボランティアガイドが館内を案内してくれること。立川流彫刻の歴史や潮干祭、亀崎の魅力について、会話しながらの美術館巡りは、とても楽しく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

こうした活動の背景にあるのは、日本美術界における日本彫刻の評価の低さだと言います。海外のコンテストで数多く入賞し評価を得ている間瀬さんですら、日本では出品できないという現実。その評価に甘んじることなく、自らの力で積極的に発信していこうとする姿には、ひとりの表現者、伝統を守り継ぐ者としての強い意思を感じます。
「宮彫が日本人の血で練り上げられた日本古来の芸術であるのにも関わらず、残念なことに日本人自身がその価値に気づいていない。だからまずは自ら多くの人の目に触れてもらい、感じてもらいたいのです」。

―研究所を立ち上げてから30年。間瀬さんは、立川流末裔の方々に認められ、六代目の名跡を受け継ぐことになりました。豊川稲荷の本殿厨子を当時のままに再現したり(豊川閣寺寳館所蔵)、海外の美術展へ出品したり、拳母・宮前町で新しい山車を造ったりと、間瀬さんのこれまでの様々な活動を並べてみると、まさに再興のための歩みがそこに刻まれています。立川流彫刻は、新しい血を得て、新たな時代へスタートを切ったといえるでしょう。これこそが、まさに立川流であるという先達の声が聞こえてきそうです。

Spot Overview

2016年、ユネスコ無形文化財に登録された「亀崎潮干祭」。毎年5月3日・4日に半田市亀崎町で行われるこの祭りは、5輌の山車(やまぐるま)が干潮の海浜に曳き下ろされます。その祭りの勇壮さはもちろんですが、特筆すべきは比類なき山車の美しさ。その道の名人が集まり、最高峰の彫刻や刺繍で圧倒する亀崎の山車は、「動く美術館」と評されるほど貴重なものです。
立川美術館は、その亀崎の山車を手掛けた伝統彫刻「立川流彫刻」の世界を紹介する私設美術館です。ここでは、江戸幕府御用の宮彫りであった立川流彫刻の発祥から、諏訪・知多での発展、現在の再興活動、精巧に作られた山車のミニチュアまで、貴重な資料や作品を展示紹介しています。館内の見学の際は、ボランティアガイドや彫刻師が丁寧に案内してくれるため、子どもから研究者まで楽しく知識を深めることができます。また、他ではできない「山車乗車体験」「からくり・お囃子の実演」なども人気です。
別館として「蔵の駅・かめざき鉄道ジオラマ館」「作右衛門屋敷(海運醸造で栄えた豪商・間瀬家の屋敷)」を公開。それぞれ全国から年間1000人以上の来館者がある人気スポットです。

立川美術館

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