河文【芸術性と革新性】

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尾張徳川家御用達の馳走処として名を馳せた名古屋の老舗料亭「河文」。今回は、日本の粋を集結した場所「料亭」に注目。中区丸の内にある創業400年前後(詳細は不明)の老舗「河文」の歴史を見てみましょう。

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料亭の歴史と建築の楽しみ方

素晴らしい歴史的建造物やそこにあるしつらえを見ると「どんな歴史があるのだろう」と興味が湧いてくるものです。今回は、日本の粋を集結した場所「料亭」に注目。中区丸の内にある創業400年前後(詳細は不明)の老舗「河文」の歴史を見てみましょう。

「河文」のはじまりは振り売りの鮮魚店

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河文は、その日とれた川魚を売る店がはじまりといわれています。初代・河内屋文左衛門は、家康公から惚れこまれたほどの食材の目利き。そのため名古屋城下で料理を運ぶ仕出し屋を開業することとなり、尾張徳川家御用達の馳走処として名を馳せました。

頃は、名古屋開府に際し、これまで清州にいた武士や町人、神社などを丸ごと転居させたいわゆる“清州越し”の時代。「魚の棚通り」には、当時、河文をはじめ“魚の棚四軒”と呼ばれた有名な料理屋があったそうですが、現在残っているのは河文だけになってしまいました。

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多くのVIPをもてなしたが空襲で焼失

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明治時代は、料亭とは、重要なことを決める会合の場として利用され、河文へは伊藤博文や吉田茂、田中角栄、ミッテラン元大統領など国内外のVIPが来店しました。また、松坂屋の財界人の集まり「九日会」もここで開かれ、名古屋財界に大きな影響を与えていたそうです。

ところが、第二次世界大戦による名古屋空襲でその歴史ある建物が焼失。昭和25~27年(1950-1952)には往時の建築様式を受け継いで再建。この建物が、平成16年(2004)に登録有形文化財の指定を受けています。

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建築家・谷口吉郎氏による習作「水鏡の間」

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ところで、日本を代表する建築家・谷口吉郎氏が河文の一部を手がけているのをご存じですか?その部屋とは、「水鏡の間」。赤坂の迎賓館の設計に携わることが決まっていた谷口氏が、友人の名古屋鉄道・土川元夫氏づてに、河文に構想を実現させてほしいと頼んだというのです。芸術家の並々ならぬ想いを汲み取った河文は、何も言わずリクエストに応じました。その後、直線的なデザインや麻の葉をモチーフにしたデザインなど、様々な谷口建築が世界に大きく羽ばたいたのも、この河文での習作がはずみになったといっても過言ではありません。

料亭とは芸術文化を支える存在

さらにこの部屋を訪れた彫刻家・流政之氏が「僕の作品を置かせてほしい」と女将に懇願。作品とは彫刻の置物かと思っていたら、なんと「水鏡の間」に手を加えさせてほしい、という意味だったとか。そんな無茶なリクエストにも、当時の女将は、ひとつだけ「手を加えるのなら、(故)谷口吉郎先生の息子さんに話を通してからにしてください」とだけ言い、了承。「水鏡の間」に加える形で、石舞台「流れ床の庭」が制作されました。意図的ではなかったにせよ、世界的に有名な日本人2名によるコラボレーションは、他ではなかなか見ることができませんね。

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しかし、これで終わらないのが河文のすごいところ。流氏が手掛けた石舞台では、年に2回「河文座」の舞台が行われています。芸術家たちが河文にインスピレーションを感じ、その想いを河文が後押しする形で、伝統はここに火を灯し続けてきました。今では名古屋の文化の発信地としての役割を担うまでとなり、芸術家の想いが形を変えながら生き続けています。それを成し得たのは、ひとえに芸術家を支えた料亭・河文があってのこと。この懐の深さこそが料亭の気高さなのだと気づかされました。

古きよき伝統と新しいスタイルを模索し続ける料亭の世界。知られざる料亭の奥は、意外と革新的で挑戦の連続だったのに驚かされました。これからも変革の歴史を刻んでいく料亭の未来を、ぜひこの目で体感していきたいものですね。

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